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アラン・ヒューストン物語

あらひゅーものがたり。

アランがニックスに来たのは90年代。
デトロイトをさっさと後にしニューヨークへやって来た。
彼はスマートでナイスガイだ。ファッションセンスなんてたぶんNBAの中でも上位に位置するだろう。
そんな彼はニューヨークの街にぴったりな男だった。
と思う。

ユーイングともなんとか仲良くして、スタークスからは教えを乞うた。
リーグ屈指のピュアシューターにこんどはラトレル・スプリーウェルという男が絡んでくる。シューティングガードがいるのにシューティングガードを加入させるなんてちょっとおかしいのだが。

スプリーは当時、リーグでも評価が真っ二つに分かれる男で、
首を絞めようがコート上ではやることはやる男、首を絞めてリーグに残留できるとはとんでもない。と言う考えと真っ二つだ。

スプリーを欲しがるチームのひとつに当然の如くニューヨークのチームがあった。
ニューヨークとは、生き馬の目を抜く、他人を出し抜いて利を得るのがこの街だ。

コートでいい仕事をしてくれること。どんなことがあっても。

これ以上にこのチームが望むものはない。

それに、おっとりしたアランをすこし競争させるため。もあったのだろうか。

アランをシューティングガード、スプリーをスモールフォワードにして
1999年には奇跡のファイナルへ。
このときのアランの人生での大きな仕事は第一回戦ゲーム5のラストショットだった。
これが奇跡のニックスの幕開けだった。
世界中の目を釘付けにした、この年のニックス。

他を出し抜いて獲得したスプリーとともに、アランはニューヨークという街で精進する。バンガンディという希有なコーチとも。

2001年7月アランはニックスと6年一億ドルの契約。
オーナーのジェームス・ドーランはアル中から立ち直った大金持ちで、ケーブルビジョンというケーブルテレビ会社の社長のひとり。
アランにこんな大金を上げたのも、ニューヨークという街の誇り高き、自己顕示欲高き、金持ち根性だったのでしょう。

しかし2001年のプレーオフ(4月)はラプターズに負けた。
キャンビーの妹さんの事件やチャーリー・ウォードの宗教事件等で、力が出し切れなかった。後味の悪いニックスだった。このときにゲーム5でスプリーはアランを批判した。この土壇場の試合でなんとアランはやることなすことだめだめで、いざというとき頼りにならないんじゃないか。というレッテルを貼られそうになる。

ニックスのシーズンは終わり、アランの契約があり、
そして2001年と言えば9月11日のテロ事件。
この前代見物のテロ攻撃に遇ったニューヨーク市は街ごと意気消沈し、人々は嘆き苦しみ、バンガンディも苦しんだ。(バンガンディは親友を亡くしている)
このテロの影響は絶大で、米国の好景気を一気にどん底に突き落とした。

シーズンが始まるとオフシーズン中話し合われていた、NBA ルールの改定が行われ、ゾーンディフェンス解禁になる。これでマンツーマンが信条のバンガンディスタイルが上手く機能しなくなる。
アランにとってはスリーポイントを前よりも容易に入れられるメリットもあり、一億ドルの価値が光った。
が、テロの影響をまともに受けたバンガンディはチームを辞めてしまう。
「精神的に疲れてしまった」と辞任。

それからのニックス、低迷が始まる。(続)
by chiesuzukihome | 2005-10-21 08:46 | NBA

イラストレーター ChieSuzukiのblog


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